実家のリビング。お茶を出してくれた母が、タブレットで英語をやっている孫を見て、ぽつりと言いました。「こんな小さいうちから英語なんて、かわいそうに」。悪気はない、とわかっています。わかっているから、笑ってごまかしました。「まあね、遊びみたいなもんだから」。
帰りの車。子供は後ろで寝ていて、ラジオも消して、静かな道。ハンドルを握る手が、少し震えていました。かわいそう、という言葉が、頭の中で何度も再生される。私は、この子にかわいそうなことをしているんだろうか。習い事も、時間の使い方も、この子への接し方も、全部間違っているんじゃないか——。
この帰り道の話を、私はご相談の中で本当に何度も聞いてきました。義理のご両親から、実のご両親から、時にはご近所の方から。そして私自身にも、言い返せなかった帰り道があります。
だから最初に、はっきりお伝えしたい。あなたの選択は、間違っていません。そして、祖父母の「かわいそう」も、間違っているわけではないのです。ただ、二人が見ている「英語」が、まったく別のものだった。それだけです。
祖父母の「かわいそう」は、別の時代の英語を見ています
祖父母の世代にとって、英語とは何だったでしょうか。中学から始まる教科。単語帳を暗記して、文法のテストで赤点を取らないように必死で勉強するもの。話す機会はほとんどなく、点数だけが残るもの。多くの方にとって、英語は「苦しい勉強」の記憶と結びついています。
その記憶を持った目で、小さな孫が画面に向かっている姿を見たら。「あんな苦しいものを、こんな小さいうちから」と思うのは、当然のことです。「かわいそう」は、孫を守ろうとする言葉なのです。祖父母は、自分が経験した英語から、孫を守ろうとしている。
でも、お子さんが今やっている英語は、それとは別物です。一回十分や二十分、画面の向こうの先生と、好きな動物の話をしたり、色の名前で遊んだり。テストもなければ、暗記の宿題もない。話すことが目的で、点数は出ない。祖父母が知っている「英語」と、名前が同じなだけで、中身はほとんど別の営みです。私が知る限り、その時間を「勉強」だと思っているお子さんは、ほとんどいません。
ここに気づくと、少し楽になります。祖父母はあなたの選択を否定したのではなく、自分が知らないものを、知っているものに置き換えて心配しただけ。心配は愛情です。否定しなくていいし、説得しなくてもいい。「かわいそう」と言われた日に私たちが傷つくのは、子供を思う気持ちを疑われた気がするからですが、祖父母もまた、同じ気持ちから言っているのです。
習い事を「かわいそう」と言われて、言い返せなかった自分を責めなくていい理由
帰りの車で私たちを苦しめるのは、「かわいそう」という言葉そのものより、「言い返せなかった自分」だったりします。ちゃんと説明すればよかった。今の英会話はそういうものじゃないと、言えばよかった。
でも、あの場で言い返さなかったのは、弱さではなかったと思うのです。目の前にいるのは、あなたを育てた人、あるいは大切な人の親。孫を心配して出た言葉に、正論で返すことを選ばなかった。それは、関係を守る判断でした。子供の前で、母親と祖父母が言い合いをしなかった。それも、子供のための判断でした。
以前、似た経験を義母に「英語より日本語が先」と言われた話に書きました。あの時も、私は言い返しませんでした。言い返さなかった自分を、後になって少し許せるようになった話です。
今日からできる小さなこと——反論の代わりに、事実を一つ
次に「かわいそう」と言われたときのために、言い返す言葉ではなく、返す事実を一つだけ用意しておいてください。
「楽しそうにやってるよ。昨日は先生に、犬の名前を教えてあげてた」
これは反論ではありません。ただの報告です。「かわいそうじゃない」と主張すると、祖父母は自分の心配を否定されたと感じます。でも、「楽しそうにやってる」という事実は、否定でも説得でもなく、祖父母が知らなかった情報です。人は、否定には抵抗しますが、知らなかった情報には、案外すっと耳を傾けてくれます。「へえ、そうなの」の一言が返ってきたら、それで十分です。
もう一つ。機会があれば、一度、レッスンの様子を祖父母に見せてみてください。実家にいる日に一回だけ、あるいは録画を少しだけ。「かわいそう」の正体は、知らないことへの不安です。孫が画面の向こうの先生に手を振って、笑って、動物の名前を言っている。その姿を見た祖父母が「なんだ、遊んでるのね」と言ってくれた、というご報告を、何度もいただいてきました。言葉で説明するより、十分の映像の方が、ずっと雄弁です。
環境の話を一段落だけ。あい子供英会話のレッスンは一回二十分で、未就学のお子さんには十分のレッスンもあります。テストはしません。英語を嫌いにさせないために、そう決めています。祖父母の世代が経験した「苦しい英語」にならないように、という思いは、たぶん、あの「かわいそう」と同じ場所から出ています。
あの帰り道の私に、今なら言えることがあります。震えていた手は、間違った選択をした人の手ではなくて、大切な人の言葉を真正面から受け止めた人の手だった、と。
言い返せなかった帰り道は、これからもあるかもしれません。でも、その夜を一人で抱えなくていい。「かわいそう」と言われて揺れる気持ちを、同じように揺れてきた母親として、一緒に受け止めさせてください。祖父母の愛情も、あなたの選択も、どちらも間違っていない——そう思える場所を、一緒に作っていきませんか。